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2015.05.23

レースの世界を見た時の衝撃がいまの自分につながっている

MOTORCYCLE MAN -オートバイのある人生- Vol.38 遠藤 智[モータースポーツジャーナリスト]前編

日本人ジャーナリストとして現在ただ一人、MotoGP全戦を転戦し、さまざまな媒体でレースの模様を伝えている遠藤 智さん。25年以上見つめ続けてきた、レースの世界の魅力を聞いた。

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レース活動のはじまりは借金生活のはじまりだった

 遠藤智さんが世界グランプリ全戦を追いかけるようになって、今年で26年目となる。モータースポーツに誌面を割いた先駆け的存在であるスポーツ新聞、トーチュウ(東京中日スポーツ)で長年レース記事を担当しており、二輪専門誌やスポーツ誌での執筆も数多い。レースファンなら誰もが一度は、遠藤さんの原稿を目にしたことがあるはずだ。これまで、膨大なレース記事を書き続けてきた遠藤さんだが、その生活は、一体いつから始まったのだろうか。
 「僕は北海道出身で、何がやりたいわけでもないけど、19歳で東京に出てきました。一応、トーチュウとかに載る公式プロフィールは〝シンガーソングライターの吉田拓郎に憧れ、ギターと共にゼッツーに乗って上京した〞なんだけど、本当にそうなんです。釧路からフェリーに乗って晴海埠頭に着いた。ギターは送ったから、そこだけ違うけど(笑)」
 上京3ヵ月で音楽の道を諦めた後は、ゼッツーでできる仕事をと、プレスライダーを始めた。しかし入社数ヵ月でスピード違反による免停に。そんな頃、通勤路沿いの『ヨシモト』というレーシングショップに、当時大人気だったヨシムラの集合管目当てで顔を出すようになる。
 もともとはレースに興味はなかったが、ある時、ショップのメンバー達が行くスポーツ走行に誘われ、富士スピードウェイに出かけた。
 「僕は走らず見学だけでしたけど、こんな世界があるのかと。初めてレースの世界を間近で見たその衝撃が、いまの僕につながっていると思います。すぐに自分もレースを始めたんですが、本当にあっという間に借金だらけになりましたね(笑)」
 レース活動は、とにかくお金がかかった。当時あらゆるバイトを掛け持ちしても、月に稼げる金額はせいぜい10万円ほど。しかし、タイヤをワンセット買えば7〜8万円が吹き飛んでしまう。数年のうちに、数百万の借金を背負うことになった。
 「その頃の僕らの目標は、ノービスから国際A級まで昇格し、ファクトリーチームに入ることでした。そうすれば、借金なんてすぐに返せますからね。でもプロになれるライダーなんて、わずか一人か二人。僕の同期でワークスライダーになれたのは、HRCに入った小林大だけでした。たとえランキング上位にいても、一位以外はみんなアマチュア。凄く厳しい世界だったんです」
 21歳でレースを始めたが、結局プロにはなれないと悟り、26歳でレース活動を終えた。しかし、この頃のさまざまな出会いや経験は、後の大きな財産になったと振り返る。

h-3仕事部屋に置かれた、加藤大治郎選手と富沢祥也選手のヘルメットは、本人からもらったもの。2人とも思い入れのある選手だ。

レースの世界から、雑誌づくりの世界へ

〝人生の師匠〞と慕う、平忠彦さんとの出会いも、レースに熱中していた時期だった。お互いが所属するレーシングチームのボス同士のつながりが縁で、新進気鋭のライダーとして注目を集めていた平さんのメカニックを務めることになったのだ。
 約2年間、メカニックとしてレースに帯同したが、レースに取り組む真摯な姿勢と情熱に感銘を受けた。少なからぬ時間を一緒に過ごしたが、周囲に当たったり、他人を悪く言う姿を見たことがないという。
 「レーサーとしても優れていたし、人格者としても100点満点の人。今もお付き合いさせてもらってますが、こちらが申し訳なくなるほど、すべてがきちんとしているんです(笑)。本当に素晴らしい人ですね」
 レース活動から離れてしばらくの間は、借金返済のために、ユンボを使った家屋解体の仕事をしていた。しかし87年、レーサー時代からの知り合いであるモトクロスライダー、ウィリー松浦さんから、あるバイク雑誌の創刊スタッフに誘われる。
 「角川書店の『ウィリー』という総合バイク誌でした。オフロード企画は松浦さんが担当できるから、他にオンロードに乗れて、書けるヤツはいないかという話になったようで、僕に声をかけてくれたんですよ」
 昔から本を読むことは好きだったが、本格的に文章の書き方を学んだことはなかった。だがウィリー編集部のスタッフは、社内でも長く雑誌作りに関わってきた編集のプロばかり。誌面作りや原稿のノウハウを、みっちりと勉強することができた。
 しかしウィリーは、創刊からわずか3年ほどで休刊してしまう。すでに結婚し、もうすぐ子供が生まれるというタイミングでの失業だった。
 「かみさんと、どうしようか話し合ってね。せっかくこの世界に入ったし、時間のあるうちに1年間、F1やWGPを見て回ることにしたんです。ウィリー時代にお世話になった作家の泉優二さんに、『GPを回ってうちの仕事を手伝え』と、誘われたことも大きかったですね」
 モータースポーツに関する著作も多い泉優二さんは、同じく作家の竹島将さんと共に「チーム竹島」を発足。88年からプライベートチームとして、WGP125クラスにフル参戦していた。遠藤さん一家は、チームのサポートをしながら、ヨーロッパを転戦することを決める。 初めて世界グランプリを回った90年は、激動の1年でもあった。6月にチームオーナーの竹島さんが交通事故で急死してしまったのだ。その遺志を継いでチームは存続したものの、シーズン半ばでチームライダーがケガによる戦線離脱を余儀なくされるなど、波乱が続いた。そして奇しくも竹島さんがトーチュウに連載していたグランプリコラムを遠藤さんが引き継いだことが、本格的ライター活動のキッカケとなった。

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遠藤 智/SATOSHI ENDO
1957年北海道生まれ。19歳でシンガーソングライターを目指してZⅡと共に上京。21歳の時にロードレースを始め、鈴鹿4時間耐久レース優勝、鈴鹿8耐や海外レースを経験すると同時に、平忠彦氏のメカニックを務めた。その後バイク雑誌の編集者を経て、90年から世界グランプリを転戦。現在も、日本人で唯一シリーズ全戦を追いかけるジャーナリスト兼フォトグラファーとして活躍している。

→MOTORCYCLE MAN -オートバイのある人生- Vol.38 遠藤 智[モータースポーツジャーナリスト]後編

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