MOTORCYCLE

“74”はリアルレーシングマシン。だから僕は手を抜かない

ミニレーサー「74Daijiro」の企画や製造、販売からレースのオーガナイズまで
すべて行う村上裕二さんには、こだわり続けるわけがある。

photo_TAKAYANAGI KEN text_MIYAZAKI MASAYUKI

とくにバイクが好きなわけじゃなかった

今回インタビューさせていただいた村上裕二さんは、1968年生まれの51歳。実年齢よりもずっと若く見える。幼いころ近所には川口オート(オートレース場)があったものの、バイク好きとして十代を過ごしたわけではまったくなかった。

中3のときにロックやブルース、ルーツミュージックに夢中になって始めたギターは、その熱が冷めぬまま30代まで続けたという。しかし現在の生活はバイクに“どっぷり”だ。

ゼッケンナンバー「74」

村上さんが20年近く身を置くことになる「デルタ・エンタープライズ」の親会社は運送会社なのだが、その会社の社長さんが加藤隆さんという人物だ。あのGPレーサー、加藤大治郎選手の父である。

そのこと自体はたまたまの出来事だが、その“たまたま”が生んだ加藤さんとの出会いによって村上さんはいま、「74Daijiro(ななよんだいじろう)」という小型のレーサーを製作している。

ロードレース世界選手権の最高峰クラスであるMotoGPで、日本人初の世界チャンピオンを期待されながら2003年の事故で亡くなった加藤大治郎選手。彼が好んだゼッケンナンバーと名前、74Daijiroという車名はそれらに因んで付けられた。

加藤大治郎の夢

そんな彼にはチャンピオン獲得のほかに、もうひとつだけ夢があったという。世界最高の舞台にまで登るきっかけを作ってくれたミニバイクレースに、自分なりの方法で恩返しがしたいという夢だ。真ん中にあったのは、「子どもたちに、モータースポーツの楽しさを伝えたい──」という気持ち。そんな真っすぐな気持ちを抱いたまま、彼は26歳の若さで他界してしまったのだ。

彼のホームコースであったサーキット秋ヶ瀬ではポケバイのシリーズ戦「DAIJIRO CUP」が通年で開催されている。それは2003年からスタートし、2020年の現在まで途切れたことは一度もない。しかし、引き継がれた夢はそれだけではなかった。


新たなマシン開発にチャレンジ

大治郎選手のもうひとつの夢。それはオリジナルレーサーの製作だった。

事故の翌年である2004年に発売された74Daijiroは、父・加藤隆さんを軸にレース関係者など多くのプロフェッショナル有志が開発にあたった、前後6インチのミニレーサーだ。それまでのキッズレースで主流だったポケバイは前後4インチだったが、タイヤサイズはじめ全体の車格をすこしだけアップさせたことで、走行可能な年齢を小学校中学年から高学年へと引き上げることに成功した。

二度目の転職をきっかけに、その開発現場に途中参戦したのが村上さんというわけだ。


ハイレベルな現場スタッフ

「メカニックの経験がわずかにあったとはいえ、二輪の、しかもフレーム設計から始まるオリジナルマシンの開発なんてそのときの自分にはもちろんムリです。ただ、経験豊富なスタッフみんなの“熱量”がハンパではないことは、僕にだってすぐに分かりました。

そんな自分に課された役割は、実際の生産にまつわるいろいろなことを回すこと。簡単に言うと、開発以外のぜんぶです(笑)。とはいえ間近で開発のプロセスを見ることが出来たのは、その後の自分にとってたいへん役立つ得難い経験になりました。ボルトの締め付けトルクひとつひとつにも大事な意味があるということをユーザーさんにきちんと説明できるのは、そのときの無二の体験があるからです」

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取材協力

デルタ・エンタープライズ
2001年世界選手権GP250ccクラスでチャンピオンを獲得した加藤大治郎選手の名を冠したミニレーサー「74Daijiro」。そのマシン開発から製造、販売、果てはレース運営やビギナー育成まで、すべてを一手に引き受けるスーパーコンストラクター。 現在は「日本郵便ホンダドリームTP(手島雄介監督)」のスポンサードを受けつつ、シリーズ戦をオーガナイズする。サーキット秋ヶ瀬では、毎週水・金曜日の午後3〜5時に体験走行会(要予約/3000円)を実施中。興味のある方は以下までお電話を。

埼玉県さいたま市桜区白鍬54-1
048-854-0020
74Daijiro